◆東西ドイツ国境線(ベルント・メルツァー氏)
 メルツァーさんは西ドイツ連邦国境警備隊に勤務していました。東ドイツは、西ドイツとの国境もベルリンの壁と同じように越境を阻止するため厳しく管理していました。メルツァーさんは任務として国境地帯をパトロールし、東ドイツ側の国境監視の動きを細かくチェックしていたのです。1980年代前半までは東ドイツは国境地帯に地雷や自動発砲装置を設置していましたが、こうした動向に目を光らせていました。

©Bernd Melzer

1. 国境線に立つ西ドイツ連邦国境警備隊員。 右の柱は東ドイツ側が立てた国境標識。
2. 国境地帯に立つ西ドイツ連邦国境警備隊員。 かつては道路だったが荒れ果てている。
3. 国境線をパトロールする連邦国境警備隊員。 国境標識の部分から右側が東独領。
4. 東ドイツの警備兵。 雨が降っているのかマントをまとっている。兵士の右には夜間監視用のハロゲンランプが立っている。
5. 国境地帯。東独側が幾重にも鉄条網を築いているのが分かる。

6. エルベ川の国境。 無人地帯に金網、監視塔が見える。
7. 同上。 木製の古い監視塔。
8. 同上。 監視塔の後ろには大きな建物が見える。
9. 同上。
10. エルベ川を監視する東独の警備艇。 夜間は対岸に錨をおろして停泊し、亡命者が出ないよう警戒していたという。

11. 古い地雷の撤去。 東独国境警備兵が新しい地雷を敷設する前に古いものを探しているところ。
12. 同上。 防護服にヘルメットという重装備で、棒を使って地雷を探す。
13. 地雷撤去後の監視。 新しい地雷を設置するまで手薄になる国境監視を補うため、臨時に立てた木製の台の上で東独警備兵が見張る。
14. 地雷の破壊。 古い型のものは起爆ケーブルを取り付けて爆破処分する。画面中央に爆破時の黒っぽい煙が見える。
15. エルベ川付近の国境警備にあたる西ドイツの警備隊員。 右側の標識は「橋が破壊されて交通が遮断されている」ことを示している。

16. 西ドイツ連邦国境警備隊のヘリ。 ベルUH1D型。冬は雪のため陸路が走れずヘリでパトロールすることもあった。
17. 西ドイツ連邦国境警備隊の装甲車。
18. 装甲車の前に集まった隊員たち。
19. 装甲車に乗り込んだ隊員。
20. 車庫の前に整列した装甲車。


◆崩壊した壁(小林君雄氏)
 小林さんは1990年、ビジネスでベルリンを訪れ、開放された壁の写真を撮りました。チェックポイント・チャーリーからポツダム広場付近が撮影されています。

©Kimio Kobayashi

1. 壁を削り取る市民。
2. 削り取った壁の破片は記念に持ち帰ったり、売る。
3. ノミとハンマーなどを使って削る。 その様子から、このような人は「壁キツツキ」と呼ばれた。
4. 削りすぎて壁に穴が開いている。
5. 壁の破片が1個1マルク(当時約90円)で売られている。
6. 誰が始めたのか、壁の破片を売るとは不思議な商売だ。
7. 小林さんと、壁を通り抜ける東独の車トラバント。


◆崩壊前後の壁(フロリアン・ボルトフェルト氏)
 ボルトフェルトさんはドイツでプロテスタントの牧師をしている関係で、旧東独、東ベルリンに仲間も多く、たびたび東側を訪れる機会がありました。そのため東側から撮った壁の写真もあります。当時、東ベルリンで壁を撮影することは厳しく禁止されていたので貴重なものです。

©Florian Bortfeldt

1. 東ベルリンから撮った壁。 東独の国民車・トラバントなどが走っている。当時、東側から壁を撮影することはタブー。どこで秘密警察が見ているか分からないので、車の中でシャッターを押した。(フリードリッヒスハイン地区、1985年4月)
2. 壁崩壊後に撮った同じ場所。 現在では壁は「イーストサイドギャラリー」として保存され、観光地となっている。(1993年)
3. 東ベルリン側から撮ったブランデンブルク門。 ここも壁があった所だが、観光地なので写真を撮ることは可能だった。(1986年4月)
4. 西ベルリン側から見たブランデンブルク門。 看板には「注意! 西ベルリンはここまでです」という警告が書かれてる。(1983年5月)
5. ポツダム広場。 車両による亡命を防止するためのバリケードが見える。(1983年5月)
6. ポツダム広場。 この場所が、1930年代は「ヨーロッパの中心地」と言われたほど栄えていたとは信じられない。(1983年5月)
7. ドイツ統一後のポツダム広場。 かつての繁栄を取り戻すべく、復興を目指し工事が進められている。(2000年11月)

8. 旧帝国議事堂(現・ドイツ国会議事堂)左手にある壁。(1987年10月)
9. 上と同じ場所。 コンクリート壁の高さは3.6メートル。人の背丈の倍くらいであることがよく分かる。(1987年10月)
10. 壁(金網)で分断された線路。 ベルリン南西部。レールは残っているものの、周辺には木が生い茂っており、壁による分断の長さを物語っている。(ツェーレンドルフ地区、1988年10月)
11. 上と同じ所。 他にも線路が壁で分断されたケースはあるが、殆どはレールなどを取り外したうえで壁や金網が設置されてる。
12. ベルリン南西部のシュタインシュテュッケンと呼ばれる場所。(ツェーレンドルフ地区1988年10月)
13. 上と同じ場所で撮影。 道路は同じでも壁がなくなると風景が一変する。(2000年11月)
14. シュタインシュテュッケンで撮った壁の裏。 警備のため余計なものは一切ない状態だ。(ツェーレンドルフ地区、1988年10月)
15. 上と同じ場所で撮影。 道路が再建され電話ボックスが作られているが、正面の建物は上の写真と同じだ。(2000年11月)

16. 東西ベルリン境界があった鉄道用地。 線路右手に壁がまだ残っている。(西側ヴェディング、東側プレンツラウアーベルク地区、1990年7月)
17. 壁の真裏。 人が歩いているのは無人地帯の軍用道路だった所。壁が崩壊してしまえば市民の散歩道になる。(1990年7月)
18. 旧東独政府のプロパガンダ看板。 左側の看板の人物は東独で国家評議会議長だったエーリッヒ・ホネッカーとみられる。政府や党を賛美する内容。(ドレスデン近郊、1985年4月)
19. こちらは「ソ連軍の英雄を忘れてはならない」という内容の看板。 東独の後ろ盾であった旧ソ連を称えるもので、同じ内容がドイツ語とロシア語で記されている。看板に使われている写真は、第2次大戦末期の1945年に、ソ連軍がベルリンを攻撃し占領した帝国議事堂の屋上にソ連旗を掲げた際のもの。(ドレスデン近郊、1985年4月)


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