突然の壁建設。離れ離れになった家族や友人を自由の地・西ベルリンに亡命させたいとの願いから、壁の下にトンネルを掘った人たちがいた。映画「トンネル」はこうした史実をもとに製作されたドラマ。このページでは当時の状況や壁について説明しました。映画を面白く見るための予備知識≠ノなればと思います。

 <壁建設の理由とは> 壁の建設が始まったのは1961年8月。当時のベルリンは米英仏ソの戦勝4か国によって占領された状態だった。ソ連占領区が東ベルリン、米英仏の占領区をまとめて西ベルリンと呼んでいた。東ベルリンや東ドイツではソ連や東独政府の自由のない圧政を嫌う人も多く、自由を求めて西ベルリンに転居する人が後を絶たず、産業復興に影響する恐れがあった。こうした住民の流出を防ぐために、東ドイツは西ベルリンの周囲を完全に封鎖することを画策した。これを実行に移したのが「ベルリンの壁」構築である。ちなみにトンネルの舞台となっているのはフランス占領地区。

壁ができる前のブランデンブルク門。人々は自由に行き来できたが、この門は東西ベルリンの境界線に立っていたので、封鎖が始まると門の交通も遮断されることになる
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 <最初は金網> 壁の建設といっても、いきなりコンクリートの壁を作ったわけではない。最初は鉄条網を張ることで交通を遮断し、それから徐々に壁を築いていった。映画の設定は、ちょうどこの頃。封鎖が開始され、コンクリートやブロックを積み上げる形の壁が徐々に作られていった時期だ。映画の中でも、有刺鉄線を張る作業、石を並べる作業の場面も見られ、少しずつ壁らしさを増していく様子が分かる。

最初は有刺鉄線を使って、こんな感じで境界線を封鎖していった。見張っているのはもちろん東独の警備兵
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 <亡命者には銃撃> 壁を見張っているのは東ドイツの警備兵だ。鉄条網や簡単な石積みの壁では乗り越えることも可能なため、銃で武装した兵士があちこちに配置され監視にあたっていた。そして、西ベルリン側へ亡命しようとする者があれば、最後は射殺するように命令を受けていた。壁を越えようとする者を見つけた場合、まず警備兵は大声で「止まれ!」と呼びかける。ドイツ語では "Stehenbleiben!" (シュテーエンブライベン!)。映画の中の兵士も叫んでいる。この警告の後に銃撃するのだ。

封鎖開始後しばらくすると、このような壁らしいものが出来上がっていった。ベルリンの壁の原型だ
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 <西側に配慮> 警備兵は銃撃するが、それはあくまで東ベルリンの領域内に限定される。西ベルリン側に銃弾が飛んでいくような撃ち方は禁止されていた。万一、西側に被害を出すようなことがあれば、アメリカなどに対する重大な挑発となる。壁を作ること自体、西側を刺激する心配があるとして、ソ連や東独は当初、建設をためらっていたほど。したがって、亡命者が首尾よく壁を越え西ベルリン側に到達すれば、警備兵は射撃を中止せざるを得なかった。

西ベルリンとの境界線を監視する東独の警備兵。銃で武装しており、亡命者には発砲もした
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 <強制立ち退き> 東独が壁を作り始めると、警備しやすくするために周辺に一定の空間が必要となってきた。そのため境界線際に建つ住居を取り壊すことになり、住民を強制的に立ち退かせることもあった。もちろん対象は壁の東側にある東ベルリンの住民だが、官憲が突然やって来て「保安上の理由」をたてに立ち退きを命令され、転居先も一方的に指定されるのが当たり前だった。

鉄条網をくぐりぬけ西ベルリン側に亡命する人たち。見つかれば銃殺される恐れもある命懸けの行為だった
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 <警備兵は若かった> 亡命者に対して銃撃も辞さない警備体制だったが、壁際で監視していた東独の警備兵は若者が多かった。鬼でもない、20歳そこそこの兵士が、命令とはいえ好んで同朋に発砲するとは考えられない。実際、元警備兵らの証言によると、銃撃だけはしたくないという気持ちが強かったという人がいる。何事もなく警備の任務が終わると「ほっとした」という兵士は多かった。

映画については配給元の アルシネテラン社 のHPへ。


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