◆壁が開いた! でも知らなかった!!
 トルステン・フィリップさんは89年11月、壁が崩壊したころ兵役のためベルリン近郊の兵舎にいました。テレビや新聞など外の動きを知ることのできるメディアと隔絶された生活を送っていたため、11月9日に壁が崩壊したことは知らなかったといいます。そんな彼が壁崩壊を知ったのは……。


 私は89年9月5日から兵役のためベルリン南郊のシュターンスドルフという街にいました。東ドイツには兵役の義務があって、18〜26歳の間に18か月間、国家人民軍に行かなければならなかったのです。私は第一機甲保安師団第二機甲保安連体に配属されました。いわゆる歩兵の部隊です。

 隊内での規制は厳しく、例えばカメラ、ラジカセ、無線機、ポータブルラジオなどを個人的に使用することが禁止されていました。また、西側のメディアを聴取することも当然禁止されてました。東ドイツの新聞しか見ることができないのですが、それすら数日遅れであったし、また10人いる部屋にたった一部、といった具合です。

トルステンさんが兵役を過ごした兵舎(壁崩壊後13年たった2002年に撮影。使い道が決まらないためか取り壊されずに残っていました)


 そんな軍隊生活で唯一、例外的にテレビを見ることが公式に許可されたのは、89年10月18日に放映された官営ニュースの「アクトゥエル・カメラ」でした。この日は、国家評議会議長だったエーリッヒ・ホネッカーが解任され、エゴン・クレンツが後任議長に着任したのです。国のリーダーが交代したという出来事のために、テレビを見ることができたのでした。このように、我々が外の動きを知る機会は非常に限られたものでした。

 しかし、これらは表向きのことで、実際は隠れてラジオを聞くこともありました。我々のような下級兵士には無理でしたが、下士官ともなるとラジオくらいなら持っていることも多く、貸してもらえることもあったのです。89年11月11日、壁崩壊の翌々日ことでした。我々は消防演習のため森の中の軍消防署にいました。そこで我々を指導した下士官からラジオを借りることができたのです。

 もちろんラジオを聞くことは公式には禁じられていたので、仲間の1人は見張り役として、外で上官が見回りに来ないか警戒していました。そんな中、他の兵士仲間とラジオを囲んで聞いたのは西ベルリン側で放送されていたリアス(アメリカ占領区放送)という局の音楽番組です。はやっているポップミュージックばかりを流す放送でした。すると、曲の合間に西ベルリン・クーダム通りからの中継に切り替わり、(壁開放により)西ベルリンに繰り出した東独市民のはしゃぐ様子が伝えられたのです。シャンパンで乾杯し、「西ベルリンにいることがまだ信じられない。ウソみたいだ!」と話していました。

 当然ですが我々は壁が開いたことを知りませんでした。だから東ベルリンの人が西ベルリンを訪れていることなど信じられず、私は最初は番組が冗談で流していた放送だと思いました。その場にいた皆が同じように考えていたと思います。全員が黙ったまま顔を見合わせました。誰ともなく「このニュースは本物かな?」と声を発し、誰ともなく「そのようだね」と答えました。ただし誰一人、表情が晴れやかになった者はいませんでした。というのは、まだ1年ほど兵役が残っていたからです。兵隊は外国に旅行することで禁じられていたので、自分達が西側に行けるということは想像できなかったからです。

ブランデンブルク門前で両親と一緒のトルステンさん(中)。彼らは東独在住だったため、この写真はブランデンブルク門の東側で撮ったものです。それにしても、ずいぶん若い頃の写真のようですね。(1986年撮影)


 壁が開いたにも関わらず、我々軍人は西ベルリンに行くことは許されませんでした。それに対しては批判が高まったため規制が緩和され、身分証を持っていれば西側へ行くことができるようになりました。私は11月末に東独マグデブルクの基地に転勤したこともあって、「西側」初体験は12月になって西ドイツのヘルムシュテットという国境の街に行った時でした。

 その後、元のシュターンスドルフに戻りました。西ベルリンの近くの検問所まで行って、西ベルリン側を遠くから見たことはあったのですが、休暇許可証を持っていなかったため西ベルリンに行くことはやめました。というのは休暇許可証なしで検問所を通ろうとすれば、軍逃亡とみなされて重罰を科されるかも知れないと思ったからです。結局、私が西ベルリンを最初に訪れたのは1991年になってからでした。(写真はいずれもトルステンさん提供)

[トルステンさんのHP]


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