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1989年8月、私は2週間の休暇を恋人と一緒にハンガリーで過ごした。私はベルリン南西のブランデンブルク州に、彼女は東ベルリンに住んでいた。この休暇中、多くの東ドイツ人が、国境を開放したハンガリーからオーストリアを経由して西ドイツへ亡命していたが、彼女が「どうしても帰りたい」というので私達は東独へ帰国した。もし、そのまま亡命すれば車はもちろん、東独に残してきた家財道具すべては国家に没収されてしまい、両親に譲るといったこともできないことになっていた。 9月になって私は隣人の女性と西ドイツへ亡命する計画を立てた。このまま東独に留まっていては将来に希望が持てなかったからだ。政治的にも経済的にも東独は破綻状態だったし、言論の自由もなかった。そして移動の自由もなく、外国へ行くといえば社会主義国だけだった。 8月から9月にかけ、チェコやハンガリーの西ドイツ大使館に逃げ込んで亡命を図る人が増えたため、翌10月中は東ドイツで出国禁止令が出され、チェコにもハンガリーにも行けなくなってしまった。11月になると禁止令が解かれ、出国が可能になった。急がなければと考えた私達は、とにかく11月11日に出国しようと決めた。計画は両親だけにしか伝えなかった。国家保安省(秘密警察)に知れると面倒なことになるからだ。 そして亡命へ向け荷造りもほぼ終えたころ、11月9日の壁開放の日を迎えた。荷物の上に座ってテレビを見ていて、夜のニュースで壁開放を知った。まったく信じられないことだったが、嬉しかった。翌10日には多くの東独人が壁を越えて西ベルリンに出かけたが、私達は荷物を車に積み込んだりする作業に忙しく、そんな暇はなかった。でもテレビを見て情報だけはおさえておいた。また、壁が開かれても、我々は11日に出国すると決めていたので計画は変更しなかった。 荷物は車に積めるだけで、残りのものは両親に引渡し、売ってもらったりした。そして11月11日、午前6時に私達は旅立った。幹線道路は西ベルリンや西ドイツへ行こうとする人たちの車で渋滞していた。私達はブランデンブルク州から東ベルリンを通り、ドレスデンを経てバート・シャンダウという国境検問所からチェコに入った。その検問所には自分達を含め車は3台だけ。検問はあっという間だった。後に聞いた話では、東独から西ドイツへ向かう検問所は混んでいて7時間も待ち時間があったそうだ。我々はチェコの首都プラハで休暇を過ごすと申告し、検問を通過した。そしてチェコ北部を走り、西ドイツ・バイエルン州シルンディング検問所に到着。午後3時半になっていた。さすがにチェコから西ドイツへの出国は厳しく、混んでいなかったのに検問所を通過するのに3時間半もかかった。 西ドイツに入り亡命を申請すると、検問所から南へ100キロ以上先にあるレーゲンスブルク近郊のシュトラウビングという町の国防軍宿舎へ行くよう言われた。霧がかかっていて宿舎を探すのに時間がかかり、ようやくたどり着いたら午前零時になっていた。宿舎には東独から出国した人が続々と到着していた。いくつかの書類に記入すると部屋を割り当てられた。もう2時になっていたので、その晩は寝ることにし、翌朝、散歩に出かけた。家並みもきれいで、人々も親切。そのうえ宿舎での食事も充実していて言うことはなかった。13日にバスでレーゲンスブルクへ行き、住民登録をして400マルクの祝い金を受け取った。翌14日に、私達は西へ180キロほど走り、親戚がいるシュトゥットゥガルトへ向かった。 ![]() 夜8時ごろに着いた私達は、迎えに来てもらうため、まず公衆電話から親戚に電話した。そこでしばらく世話になるのだが、西側に来ることができて、もう夢のようだった。その後の数日は街のことを知ろうとした。私にとって一番大切だったのはサッカースタジアムがどこにあるかだった。さらに身分証明書やパスポートの申請もした。そして11月29日、私達は近郊のケルネンという町に部屋を得ることができた。 その年の12月から翌年の2月末まで地元の造園業者のもので働いた。私達は庭師なのだ。その後は、シュトゥットゥガルトにあるダイムラー・クライスラー(ベンツ)社と契約している造園会社に就職することができた。そして、何回かの引っ越しを経て、一緒に亡命した隣人の女性とは94年に結婚した。西ドイツに来てもうまくいかずに東独へ戻る人もいるが、私達はこちらでの生活に満足している。確かに東独、西独の2つの国が存在したが、私にとっては同じドイツだと思う。 |