・・・・・・・・・壁はなぜ崩壊したか・・・・・・・・・

・国民の不満
 東ドイツは「社会主義統一党」という名前の政党により支配された独裁国家でした。この社会主義統一党は、事実上、共産党と同じでした。国民には政治的自由や言論の自由がなく、特に「国家保安省」と呼ばれた秘密警察による監視が厳しかったのです。一般市民の中に国家保安省に情報を提供する協力者がたくさんいて、例えば「近所の○○さんが政府を批判していた」というような密告が行われました。

 しかも、この協力者であることは秘密にされたので、家族の中にも知らないうちに協力者がいることもあったといいます。だから夫婦や親子の間でさえ、政府を批判するなどの会話は難しかったのです。家族といえど腹を割って話し合うこともできない状況でした。国民は常に行動を見張られている、といっても過言ではありませんでした。

 このような体制の中で、1980年代を通じて、東ドイツでは国民の間に政治に対する不満が高まっていきました。また、西ドイツやアメリカ、日本など西側の国に比べ商品の種類が少なかったり、質が劣っていることも事実でした。例えば車では、東ドイツで一般の人が買えるのは2種類くらいしかなかったので、街中を同じ車が走っているようなこともありました。


東ドイツの代表的な車「トラバント」。このように同じ種類の車ばかりが見られるのが東ドイツでは当たり前だった


・ハンガリーの鉄条網撤去
 東ドイツと同じ社会主義国だったハンガリーでも国民の不満が高まり、ハンガリー政府は自由化へと動き出しました。1989年5月にはオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去を始めました。越境するにはパスポートやビザなどが必要とされ、境界線付近は警備兵が監視していましたが、鉄条網撤去は自由化の象徴と見られました。

 これに目をつけたのが西ドイツへの出国(亡命)を目指す東ドイツ人でした。ハンガリーからオーストリアへ越境することを狙って、この年の夏には数万人とも言われる東独人が「休暇・旅行」の名目でハンガリーに滞在しました。そして不法ながら国境を突破してオーストリアに入った人が夏だけで200〜300人もいたのです。

・ピクニック事件
 1989年夏、ハンガリーの反政府団体が集会を開きました。集会が開かれた場所は西部の観光名所ショプロン。オーストリアへの国境近くの町です。この集会には東ドイツ人も多数参加していました。そして「汎ヨーロッパ・ピクニック」というイベントを計画していました。これは、ハンガリーから国境を越えてオーストリアに入りこむことで、東西ヨーロッパを自由に通行できることをアピールしようという内容でした。

 そして実際に、このピクニックは実施されました。国境地帯まで歩き、鉄条網は撤去されていたものの閉鎖されていた国境の柵を開けてオーストリア側に越境しました。ハンガリーにも国境警備兵がいて監視体制を敷いていたのですが、不思議なことに越境を見逃したのです。ピクニックに参加していた東ドイツ人は、そのままオーストリアになだれ込みました。この日だけで東ドイツの900人が越境したと伝えられます。8月19日の土曜日でした。オーストリアは西側自由主義国だったので、オーストリアに入った東ドイツ市民は、簡単に西ドイツへ行くことができました。

 上の地図のように、東ドイツからハンガリーへ行った人たちが、オーストリアへ逃れ、西ドイツに行くことができたのでした。


・意味が失われた壁
 この話が伝わると、出国を希望する東ドイツ人がハンガリーに殺到しました。ハンガリー政府は越境について「不法行為」と一応は非難しましたが、越境者を逮捕したり射殺したりといった措置は取らず、黙認を続けました。東ドイツ市民は、ベルリンの壁や東西ドイツ国境を命の危険を冒して超える必要がなくなったのです。ハンガリー経由なら安全に出国できるのです。それは、東ドイツ政府にとって、ベルリンの壁を厳重に監視する意味が失われたのと同じことでした。

 しかも、10月ごろから東ドイツ国内では自由化を求めるデモがライプツィヒを中心に多発。11月に入ると政府も統制できないほどの規模になりました。そして、ピクニック事件から約3か月後の11月9日夕、とうとう東ドイツは市民の自由な出国を認め、ベルリンの壁、東西ドイツ国境を開放すると発表しました。しかも、この措置は即刻実施されると発表されたので、東ドイツの市民は夜にかけて続々とベルリンの壁にあった検問所に詰め掛けました。このニュースは即座に世界中に流されたので、西ベルリン側からも人々が押し寄せ、検問所周辺はお祭り騒ぎのようになりました。この一晩で数万人が西ベルリンに入ったと言われます。こうした経緯で壁は崩壊したのでした。

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