| ベルリンの壁に地雷なし! |
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そうです。ベルリンの壁には地雷は敷設されてなかったのですが、壁の裏の無人地帯には「地雷があった」と勘違いしてる方が多いのです。地雷が埋められていたのは、東西ドイツの国境です。国境地帯でも東ドイツはベルリンの壁と同じような監視体制を築いていましたが、距離が1,378キロとあまりに長かったので地雷を利用しました。1964年には東独政府内でも地雷の設置が報告されていました。しかし世界的な非難を受けて1985年には公式には撤去したことになっていました。現実には撤去し忘れたためか、一部がドイツ統一後まで残っており、除去作業が行われました。 壁を乗り越えようとする者は射殺される、ということからベルリンの壁には地雷があるのも当然、と考えたくなるのですが誤りです。また同じように間違いやすいのが、亡命しようとする人を感知して銃撃する自動発砲装置です。これも東西ドイツ国境には1971年に設置されましたが、ベルリンの壁にはなかったのです。地雷と同じように、この自動発砲装置も東西ドイツ国境で1984年までに撤去されました。 |
| ベルリンの壁は東西ドイツ国境ではない |
これも間違いやすいのです。ベルリンという街は、東西ドイツの境界線上にあったのでなく、左の図のように、東ドイツの中にありました。だからベルリンの壁は東西ドイツの国境ではあり得ないのです。ベルリンの西側、つまり西ベルリンは社会主義国だった東ドイツの真中にあったため、自由を求めて西ベルリンに亡命する人が後を絶たず、東ドイツが築いたのがベルリンの壁でした。市民が西ベルリンへ入るのを阻止する目的ですから、壁は西ベルリンを取り囲むように作られました。ベルリンの壁が築かれる以前から、東西ドイツ国境は東ドイツが鉄条網を立てるなどして、ある程度厳しく封鎖されていました。だから西側への亡命を希望する東ドイツ市民は、東ベルリンから西ベルリンへ入る形で亡命したのです。東西ベルリン間の通行は、1961年8月まではそんなに厳しく制限はされていなかったので、比較的安全に西側への亡命が果たせました。西ベルリンに入ってしまえば、そこで暮らしてもいいし、飛行機を使って東ドイツを飛び越えて西ドイツへ行くことも簡単にできました。 |
| 壁は一夜にしてならず |
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壁は一般に1961年8月13日に建設されたと言われますが、150キロもの距離にわたり立派な壁を一夜にして築くことは不可能です。では13日に何が行われたのでしょうか。午前零時を期して東ドイツの警察などが動員され、まずは境界線にある道路の閉鎖から始められました。有刺鉄線を張ることで道路を塞ぎ、人や車の交通を遮断しました。さらに銃で武装した兵士が見張りに立ちました。また境界線のずっと後方では不測の事態に備えてソ連軍の戦車も配置についていました。 道路だけでなく、西ベルリンとの間に走っていた電車の運行も境界線手前の駅でストップしました。西ベルリン側で、こうした封鎖の動きが最初にキャッチされたのも、電車が不通になったという情報でした。午前1時54分に「ベルリン西郊のシュパンダウという駅に、東ドイツから来るはずの電車が来ない」という通報が西ベルリン警察本部にもたらされた第一報です。その後、午前2時半には有名なブランデンブルク門で交通が遮断されました。午前6時ごろになると西ベルリンが鉄条網で封鎖されつつある、ということは誰の目にも明らかな事態でした。 鉄条網による封鎖が完了してから、いよいよコンクリートブロックなどを使った壁の構築が始まりました。早い場所では2日後の8月15日に壁建設が始まったと伝えられています。その後、徐々に監視体制を強化するために監視塔や照明灯などいろいろな設備が作られていきました。 |