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[成り立ち] 東西ベルリンの中心に位置するブランデンブルク門は、ベルリン市民の心の拠り所であり、近・現代のベルリンの歴史を見つめてきたランドマークでもあります。壁があった時代には「ドイツ分断の象徴」と呼ばれ、壁が崩壊しドイツが再統一されると「統一の象徴」と呼ばれるようになりました。この門は1788年から3年の歳月をかけて建設され、高さ26メートル、幅65メートル、奥行きは11メートルです。東西ベルリンの境界線が通っている場所ですが、門自体は東ベルリン側に属していました。そのため壁は門の西側に作られていたのです。 |
(左の写真は戦争直後のブランデンブルク門。激しい市街戦による戦火の影響で焼けただれているように見える。右は壁が建設される前に撮影されたと思われるブランデンブルク門 ©copyright) |
| [存在感] |
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| 目の前に立ちはだかるブランデンブルク門は、都市分断という現実を見る者につきつける冷たい存在でもあった一方で、ベルリンを訪れる者は必ず足を運ぶ愛される観光地でもあったのです。特に観光客には人気スポットで、これは東ベルリン側でも同じでした。通常、東側では境界地帯は警備が厳しく、壁に近付くことは不可能に近かったのですが、このブランデンブルク門だけは例外でした。警備兵はいましたが、門の前で写真を撮ることもできたのです。 |
| [勝利の女神の謎?] |
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| ブランデンブルク門の上に飾られているのは、クヴァドリガ(Quadriga)と呼ばれるもので、これは四頭立ての馬車に引かれた戦車に勝利の女神が乗っているという彫像です。上の左右の写真、女神が右手で持っている杖の先端を見くらべてください。左の写真では杖の先端に鷲がいるほか輪の中に「十字」の飾りがありますが、右の写真では鷲も十字もありません。壁があった時代に門を管理していた東独が、「鷲や十字は、かつての軍国主義を思わせる」という理由でわざとはずしていたのです。これらの飾りはドイツ統一後に復元されました。 |
| [門前の壁 お色直し] |
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| ブランデンブルク門が観光名所でありランドマークであることを東ドイツも認識していたようで、門の前にある壁は通常より低く作られていました(上左の写真)。そのため西ベルリン側からもよく見えるようになっていました。土塁のように太く低いコンクリートの塊に、薄いプラスチックの板を貼り付けた構造でした。しかしプラスチックであるため、この覆いは西側からのいたずらで放火されることもあり、そのたびに東側は補修をしていました(上右の写真)。こうした理由 、あるいはプラスチック板の覆いでは安っぽいと考えたのか、東独は表面の模様替え工事を行ったのです。1987年12月のことでした。 |
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| 表面のプラスチック板をはずしたところ(上左)。同時に新たに貼り付ける石製の化粧板を準備しています(上右)。左側の写真のように、壁の前にはフェンスが立てられています。これは東ドイツの作業員が西ベルリンに逃亡することや、西ベルリン側からのいたずらを阻止するためです。 |
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| 工事は夜中に行われていました。観光客に工事の様子を見られたくないからだと思われます。そもそも12月に実施するのも、寒くて天気が悪いため訪れる人が少ない時期を選んだといえます。昼間は警備兵がコンクリートが剥き出しとなった壁の前を巡回します(上左)。しかし警備の隙をついて西ベルリン側からの落書きも相次ぎ、あっという間に色とりどりのキャンバスのようになりました(上右)。 |
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| なんとか12月中に工事は終了、化粧板を貼り付けられた壁が見事に完成しました(上左)。記録に残しておくため、東側の警備兵が壁の上で写真を撮っています(上右)。 |
| [切手] | |
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| ブランデンブルク門を題材にした切手は東西両ドイツで発行されていました。左が東ドイツの切手で、門上部には東独の国旗がはためいています。右の切手が西ドイツ発行のものですが、門がちゃんと正面から見たように描かれているのが面白いですね。西ベルリン側からだと、見えるのは後姿なんです。 |
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