東ドイツ歴史教科書の内容

 東独の10年生(高校1年)が使う歴史教科書のベルリンの壁に関係する部分を訳してみました。「西ドイツが戦争を起こそうとしている」という危機感を盛んにあおり、さらに西側に対する非難に終始することによって、逆に壁建設という自らの行動を正当化しようと努めていることがよく分かります。自らの失政・圧政による亡命者続発の事態には全く触れていないばかりか、これを「西側による収奪」と表現しています。

 ほぼ直訳なので日本語として読みにくいかもしれません。文中の太字部分は教科書でも太字になっている部分で、キーワードとしての意味があると思われます。また次のような略語も頻繁に使われています。
BRD=西ドイツ、DDR=東ドイツ

 下の方に出てくる斜体で書かれた部分は、内容について生徒に考えさせる「課題」で、その後に続く≪要約≫は流れをまとめており、いずれも掲載されていたものです。

 1961年8月初頭、BRDの軍国主義者たちは、DDRに対する最終的な軍事侵略の準備を開始した。BRD国防相のシュトラウスは米国を訪問。シュトラウスは米大統領ケネディと国防長官に、DDRでは人民の蜂起≠ェ予想される、と説明した。それを機にBRD政府は、DDRに対する一連の警察行動≠ノおいてドイツ内部の紛争≠フ解決へ向け主導権を握ろうとしていた。この計画を支援するためヨーロッパに展開していたNATO軍は警戒態勢に置かれた。中央ヨーロッパNATO陸戦隊の指揮官であり、かつてのヒトラー時代の将軍でもあったシュパイデルは同時にDDR国境を視察した。軍事的な戦争準備はDDRに対する相次ぐ中傷を伴った。BRD国民は、DDR人民の過半数が社会主義に反対し、労働者−農民の権力を消滅させることがあたかも人権上当然のことである、と信じていたことだろう。DDRで発生するとされる騒乱を喧伝することにより、BRD帝国主義の本当の目論見から目をそらさせ、戦争準備を隠そうとするのは自然な成り行きだった。

 1961年8月3−5日、ワルシャワ条約機構諸国の共産党、労働者党の第一書記による会議がモスクワで開かれた。その会合で必要な対策について審議され、BRD帝国主義やNATO加盟国により脅かされている平和を守ることが確認された。DDRは西ベルリンに対する国境において必要な防衛策を実施し、社会主義陣営の国々に対するさらなる破壊活動を効果的に阻止すべきである、と社会主義の兄弟国は決定した。

 モスクワ会議の結論に従い、人民評議会は1961年8月11日、国境を防衛するために必要なあらゆる措置を準備し実行することを閣僚評議会に委託した。閣僚評議会の決定により、8月12日深夜から13日にかけて、国家人民軍、人民警察、労働者階級の戦闘部隊が警戒態勢下に置かれた。8月13日の最初の数時間で、これら部隊は、これまで開かれていたDDR−西ベルリンの国境を封鎖した。8月13日朝、ベルリンに日が昇るころ、防衛措置は原則終了した。西ベルリンという戦争の火種は確かな管理の下に置かれた。

 その後、素早く展開された対ファシズム防御壁の構築に、西側連合国、BRD政府、そして西ベルリン市当局は驚愕した。ボンや西ベルリンでうろたえた政治家たちが会議に追いまくられているうちに、DDR首都の生活は平常を取り戻した。労働者階級の戦闘部隊が規律正しく出動したことは特に意義深い。彼らの態度は侵略的な帝国主義陣営の目を覚まさせる効果があった。

 DDR有職者の過半数はこの防衛措置を歓迎し支持した。その後の数日間、多くのベルリン市民が、出動している部隊を訪れた。事業所の代表や多くの一般市民がプレゼントや花を持っていくことで、感謝の意を表した。…(中略)…国境防衛により、労働者の働きによって得られた成果を持ち出したり、DDRにおいて収奪を行い罰せられずにいることは、もはや不可能になった。

1.1961年8月13日にとられた国境防衛措置の必要性について理由を考えてみよう!
2.世界における力関係の変化の象徴として、この措置を評価してみよう!

 ≪要約≫−−1955年の条約により完全な主権を得たDDRは確かな平和の砦であることが証明された。ソ連との緊密な協調により、わが国は帝国主義の圧力、特にBRDや西ベルリンからの攻撃に対し断固立ち向かっている。BRDがNATOに加盟することでドイツの分断が最終的に確定してから、DDRの政策は平和共存原則の精神に基づきBRDとの関係構築に向かった。

−−DDRに対する帝国主義的な力の政策≠ヘ1961年8月13日で最終的に挫折した。ソ連や他のワルシャワ条約機構のパートナーの同調により、それまで開いていた西ベルリン国境が信頼できる管理の下に置かれた。DDRを殲滅するという侵略的なNATO勢力の目論見は費えた。それはDDR創立以来、BRD帝国主義にとって最大の敗北であった。

−−1961年8月13日の措置はBRDの帝国主義によるDDRからの経済的収奪に終止符を打った。それにより人民経済の持続的な発展にとっての重要な前提が整えられた。DDRの社会主義的な国家・社会秩序は、より有利な条件のもとで発展することが可能となった。

 重要事項
1955 DDR−ソ連間で国家条約を締結
1956 DDR国家人民軍創設のための法制定
1961 1961年8月13日のDDRの措置により国境を防衛

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