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| 西ベルリン側では自由に壁を見たり、議論することもできましたが、東ドイツではどうだったのでしょうか。よく知られているのは、東側では壁のことは公式には「対ファシズム防御壁」と呼ばれていたり、壁に近づくことを禁止するなどタブー視されたことです。もともと壁は、東側から多数の労働者が西側へ亡命するのを防ぐ目的で作られたものですが、このとき東ドイツ側は、亡命者が出ることについて、自らの政策の失敗を棚に上げ、「西側が破壊工作、人身売買を行っている」と西ベルリン、西ドイツなど西側の責任に仕立てていました。こうした理屈で、壁は「西側によるファシズムから社会主義体制を守るため」のものと位置づけられたのです。 |
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・あるチェコ人の経験 東独と同じ社会主義圏だったチェコスロバキア。海外旅行といっても同じ社会主義圏の中でしかできないのが当たり前でした。あるチェコ人、ベルリンの壁に関心があって東ドイツには何度も旅行しましたが、東側では壁はタブー。とはいってもダメとなったら逆に見たくなるのが人間。人情に洋の東西は問いません。そしてある時、どうしても壁を見たくて、通りすがりの人に「チェックポイント・チャーリーはどこですか」と聞いてしまいました。 これが運の尽き。2分もすると警察のパトカーがやってきて、警官に周りを囲まれ職務質問が始まりました。「なぜ壁を見たい?」「パスポートは?」「なぜカメラを持っているんだ」…。壁からは50メートルほど離れた場所で、立ち入り禁止地域ではなかったにもかかわらず、チェックポイント・チャーリーへの道順を尋ねただけなのに、過剰ともいえる反応。東独当局が壁に対してはいかに神経質になっていたか分かります。 |
・学校での教育東ドイツ出身のトルステン・フィリップさんによると、東独では10年生(日本では高校1年)の歴史の授業で壁について教えられていました。(右の写真は歴史教科書の表紙)。教師は国の方針に忠実であることが要求されるため、殆どが社会主義統一党(共産党)の党員でした。だから授業でも壁構築については、「西側による収奪を防ぐため、西ベルリンに対する国境線を正しい管理下に置いた」という国の公式見解を繰り返すばかり。しかも授業ばかりでなく、5月1日のメーデーや10月7日の東ドイツ建国記念日など事あるごとに壁の成り立ちについて説明されました。 「生徒は教師の説明をあまり信用していなかった」とフィリップさん。「でも面倒なことになるのが嫌なので、教師が言うことに従っていた」といいます。「もちろん学校を離れればプライベートな場で壁について本音で語ることもできたが、それすら殆どの生徒はしなかった。この社会システムの中で生きていかねばならなかったし、将来の就職にも影響するから」と半ば諦めともとれる理由で状況を受け入れていました。 歴史教科書の内容 (新しいウィンドウが開きます) |
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