■亡命について5.トンネルを掘る |
| 1960年代初頭、つまり壁ができて間もない頃に多かった方法。計10本程度のトンネルが掘られたとされ、殆どは西ベルリン側から家族、親類、知人を東ベルリンから亡命させるために作られた。中にはトンネルは掘ったものの、亡命する前に東側公安に察知され、逮捕されたり射殺されたという悲劇もあった。したがってトンネルを掘っていることを秘密にすることが最も重要なことのひとつとされた。特に掘り出した土砂を隠さないと、トンネルの存在が東側のスパイに察知される恐れがあった。 |
◆トンネル29 最も有名なトンネルは、ドイツでは映画化もされたトンネル29≠ニ呼ばれるものだ。1962年5月、ハッソ・ヘルシェル氏(当時27)が仲間の学生らとともに西ベルリン側からトンネルを掘り始めた。彼らはヴェディング地区ベルナウ通りの廃工場を借り、地下7メートルほどの深さまで掘り、その後、東ベルリンへ向けて掘り進んだ。掘った土砂を隠す必要もあって、あまり大がかりなトンネルは作れず、高さは約70センチ。はって進むのがやっとだ。ベルリンに多い地下水と戦いながら、トンネルを補強しつつ少しずつ掘り進んだ。
(右の写真はトンネルの出口があった東ベルリン・シェーンホルツ通り7番地のアパート)=©photo by Torsten Philipp, 2001 そして約4か月後、約140メートルを掘り進んだところで、東ベルリン・シェーンホルツ通り7番地にあるアパートの物置部屋に到達。ハッソ氏の妹ら東ベルリンの亡命希望者とはスパイさながらの方法で連絡を取り合い、62年9月14日午後3時ごろ、計29人が西ベルリンへ脱出した。 |
亡命決行の日、誘導役を果たしたのは西ドイツ出身の女性だった。亡命希望者とは事前に連絡を取っていて、集合場所であるカフェに徐々に集まってくる。ただし、一般の客や秘密警察の目もあるので、亡命のことは話題にしない。誘導役の女性がコーヒーを注文する。この店にコーヒーはないが、これが実は合図。さらに彼女はブランデーを注文、グラスをわざと倒し、ブランデーをこぼした後、店を出て行く。いよいよ決行するという合図だった。あらかじめ合図を知っていた亡命希望者は、目立たぬよう店を出て、シェーンホルツ通りのトンネル入口へと向かったのだった。
このトンネルを有名にしたのは、掘り進む過程をアメリカのテレビ局NBCがフィルムに収めたことだった。トンネルは秘密裏に作られたが、どこから漏れたのかNBCが聞きつけるところとなり、トンネル掘削費用と引き換えに撮影許可を取り付けたという。当然のことながら、米CIAにもこの話は伝わったが、不思議なことに、西ベルリンでも活発にスパイ活動を展開していた東独の秘密警察は最後まで知らなかったとされる。 (左の写真はアパート玄関、下はアパートの中の物置部屋への入口。そこにトンネルの出入口があった)=©Photo by Torsten Philipp, 2001
ハッソ氏は亡命支援者(亡命屋)として有名で、以後1972年までの10年で約1000人の亡命を成功させたらしい。トンネルばかりでなく、バルト海を船で渡したり、気球に乗せたり、車のトランクに隠すなど、あらゆる手段を用いた。亡命のための手数料として、彼は1人あたり最高100万円近く受け取った。その後、パブやステーキハウスを西ベルリン市内で経営したというが、ステーキハウスの方は1990年代半ばのBSE(狂牛病)騒動でつぶれたと伝えられる。
このトンネルをモデルにドイツで製作された映画「トンネル」(ローランド・ズゾ・リヒター監督)は、2001年のモントリオール国際映画祭で「観客賞」を獲得、日本でも上映されるなど世界的にヒットした。 |
◆トンネル57 その名の通り57人を亡命させたトンネル。トンネル29と同じベルナウ通りを舞台に掘られた。ヴォルフガング・フクス、ラインハルト・フラー両氏や学生ら約30人が作業に従事した。トンネルの入口は、ベルナウ通りにあった閉鎖したパン屋。1964年の初め、ここを写真スタジオにするという名目で借り上げ、地下室からトンネルを掘り始めた。トンネル29と同様、まず真下に数メートル掘り下げてから東ベルリンに向かった。やはり穴の高さは1メートル以下で地下水との格闘も続いた。約8か月かけて140メートル以上掘り進んだところで、東ベルリン側のシュトレリッツ通り55番地にあったアパート裏庭のトイレの下に出口を設けた。
そして10月3日夜、支援者4人がトンネルを伝って東ベルリン側に潜入、トンネルの入口やアパートの玄関前に立ち、亡命者を誘導した。トンネルは狭いため、140メートル以上をはって進まねばならず、通り抜けるのに10分から30分かかったという。その日は当局にも見つからず28人が西ベルリンへの脱出に成功した。そして翌4日夜も続々と自由を求める人々が続いた。
(左の写真は、トンネル57があったシュトレリッツ通り55番地のアパート玄関)=©Photo by Torsten Philipp, 2001 しかし、日付が変わるころ突然、東側の国境警備兵や秘密警察がアパートの周りに現れた。あわてた支援者らは急いでトンネルに駆け込もうとしたが、警備兵が銃撃を開始。支援者も護身用に持っていたピストルで応戦しつつ、何とか逃げることができ、大きなケガを負うこともなく他の亡命者とともに西ベルリン側へ戻ることができた。午前0時10分ごろだった。この銃撃戦で東ドイツ国境警備隊のエゴン・シュルツ下士官(21)が被弾し死亡した。東ドイツの機関紙である「ノイエス・ドイチュラント」紙は10日付で「シュルツ同志は西ベルリンの悪質な殺し屋により殺害された」と支援者が放った銃弾に倒れたことを強調し、彼の死を大々的に宣伝した。その後、東独はこのトンネルがあったシュトレリッツ通りをエゴン・シュルツ通りと改名することで彼を「人民の英雄」として称えた。他にも学校やユースホステルなどの名前に「エゴン・シュルツ」の名が冠せられた。 しかし暗闇での銃撃戦だったこともあり、シュルツの死を巡っては、西側では本当に支援者の銃弾によるものかどうか長く疑問視されていた。ドイツ統一後の1990年代、ドイツ連邦検察庁が調査したところ、シュルツの死亡に関する旧東独秘密警察の機密書類が見つかった。それによると彼は同僚のカラシニコフ銃の弾に当たったのが原因で死亡したことが明らかになった。つまり「西ベルリンの殺し屋に撃たれて死んだ」という東独の宣伝(プロパガンダ)は真っ赤なウソであったことが分かったのだ。 トンネル57を掘った中心人物のヴォルフガング・フクスとラインハルト・フラー。フクスは、その後、西ベルリン・ノイケルン地区で薬局を経営、2001年6月6日に62歳で死去。フラーの方は宇宙飛行士となり1985年にスペースシャトル・チャレンジャーに搭乗するなど活躍したが、95年9月9日、ベルリンで開催された航空ショーでジェット機を操縦中に曲芸飛行に失敗、墜落死した。 |
| ◆高齢者向け? のトンネル 1962年1月、ベルリン北方のオラニエンブルク通りに掘られたトンネルで28人が亡命。その近くでは81歳の男性を中心に掘られた別のトンネルもあり、こちらは同年5月に12人が亡命したと伝えられる。このトンネルの高さは最高1メートル75センチだったというが、これはお年寄りが立ったまま歩けるようにするためだったのかも知れない。 |
| ◆墓地にトンネル 東ベルリン・パンコウ地区にある墓地。墓石の裏にトンネルの入口が作られた。1961年12月21日夜、秘密警察の隊員が境界に近いこの墓地をパトロールしていたところ、突然1メートル60センチもの深さの穴に転落。懐中電灯で照らし確認すると、ここがトンネルの入口であることが分かった。そして2日後、近くにあったもう一本のトンネルも発見された。2本のトンネルは長さ約30メートル、高さは70センチから1メートルだった。秘密警察はトンネルを塞ぎ、張り込みを続けていたところ、12月29日、ここを使って亡命しようとした女性2人を発見、逮捕した。その後の裁判で翌年3月22日、2人には2年3月の懲役刑が言い渡された。この2本のトンネルが発見される前に、100人ほどが既に亡命していたという情報もある。 |
| ◆悲惨な結末 壁の出現で家族が生き別れになることも多かった。ジークフリート・ノフケ(22)の場合もそういう1人だった。東側に残したままの妻と子供を何とか連れて来ようと、1962年5月、同じく家族などを迎えようとした仲間とトンネルを掘り始めた。そして6月28日、いよいよ亡命開始となったのだが、実は仲間内に東ドイツのスパイがいて、情報は筒抜けだったのだ。その日が亡命決行の日であることや、どんな人物が亡命を予定しているかということまで事前にばれていた。それを知らずにノフケはトンネルを通って東側に潜入したところを、待ち構えていた東独の秘密警察に銃撃され、重傷を負い搬送される途中、愛する妻や子供に会うこともなく息を引き取った。この銃撃戦では、グループに潜入し一緒にトンネル掘りに参加していた東独のスパイも流れ弾に当たりケガをしたとされる。 |