■亡命について

1.強行突破


 この方法が最も簡単なため多かったと見られる。しかし逆に警備兵に見つかる可能性も高く、銃撃の犠牲になるケースも多かった。封鎖初期の頃は鉄条網くらいしか設置されておらず手ぶらでも越境できたが、しっかりした壁が築かれるにつれ、ハシゴやロープなどの道具が必要になっていった。

 ©copyright

 ◆ビデオにも記録 上の写真は1961年に、男性1人、女性2人の計3人が鉄条網を突破し西ベルリンに亡命したところ。記録によると、男性と女性の1人は婚約者同士だった。西ベルリン側では支援者が有刺鉄線を切断して、逃亡を待ち構えていた。東独の警備兵も亡命に気付き銃を構えて追いかけてきたが、支援者が催涙ガスを投げつけたことで煙幕が張られ3人は無事に西ベルリン側へ到達した。この亡命劇はビデオにも残されているが、写真では黒い服を着て走っている女性(男性の婚約者)が鉄条網をくぐり抜ける瞬間、有刺鉄線に首から胸のあたりを引っ掛けてしまい体がブランコのように飛び跳ねるシーンで有名。見ていて思わず息を飲んでしまう。

 ◆車両で 壁がまだ本格的に作られていない時期にはバスやトラックで境界に突っ込んだケースも多発した。壁ができた最初の年である1961年だけでも、大型車による突破の試みは14件発生したという情報がある。実際の例としては、トラックで亡命しようとした若者は発砲をうけ死亡、また数人が乗ったバスが壁に突っ込んだ時は周囲から銃撃され、多数の重傷者が出たうえ1人も亡命できなかった。

 ◆蒸気機関車で 東ドイツから西ベルリンに通じていた鉄道路線を使った亡命もあった。もちろん線路そのものは壁建設とともに障害物が設置されるなどして、列車の往来は厳しくコントロールされ、西ドイツ−西ベルリン間を走る列車しか通れなかった。1961年12月5日、東ドイツの機関士ハリー・デタリング(27)が運転する蒸気機関車が客車を引いて時速約60キロで境界線を突破、西ベルリン・シュパンダウ地区へ入ることに成功した。32人の乗客のうち24人が亡命するためにこの列車に乗っていた。

 その際、警備兵に銃撃されることを考え、亡命希望者は境界線を越える際には床に伏せていたが、銃撃はなかったという。デタリングによると、警備兵はその後に来るはずの西ベルリン行きの列車と勘違いしていたらしい。列車は午後8時45分ごろ西ベルリンに入ったところで停止。もともと亡命列車≠ナあることを知らずに乗車していた17歳の女性は、壁構築により両親と生き別れになっていたので、この機会を利用して、そのまま西ベルリンに亡命した。車掌や乗り合わせていた警官、2人の警備兵は東独に戻ったという。

 ◆ブルドーザーで 1966年、2人の労働者が18トンのブルドーザーで壁に突っ込んだ。まだ壁も本格的な強度を持ったものではなかったため、行く手を遮られることはなかった。これに対し警備兵も応戦、38発の銃弾を浴びせたが2人のうち1人がかすり傷を負っただけで亡命に成功した。

 ◆走り抜けた 1986年1月20日、23歳の電気工がチェックポイント・チャーリー近くの無人地帯で警報装置を点検中、警備兵の監視のスキをついて駆け出し、検問所を西ベルリン側へ向かって走り抜け亡命した。西ベルリン側にいたたくさんの観光客が突然のハプニングに目を白黒させる中、無事に境界の白線を越え西ベルリン入りしたという。