亡命について


 壁を作って移動の自由が奪われれば、越えてみたくなるというのは人情です。東ドイツが1961年8月13日に西ベルリンを封鎖し、周囲を囲むように壁を作ると、壁を越えて西ベルリンへの亡命を試みるケースが後を絶ちませんでした。亡命を阻止するために東独当局は警備を厚くし、様々な設備を整え、年を追うごとに近代化を進めていきました。ベルリンの壁の歴史は、そのまま亡命の歴史ともいえるのです。

亡命の方法
 取り締まる側との知恵比べともいえるくらい、様々な方法で人々は亡命を試みた。その方法とは、

1.強行突破
2.車などの交通機関・貨物に隠れる
3.運河や川を渡る
4.気球などで飛び越える
5.トンネルを掘る
6.飛行機をハイジャックする
7.偽装・変装する
8.その他


 であった。東独では亡命は公式には「共和国逃亡」と呼ばれ重罪だった。見つかれば最悪の場合、銃撃されることは確実で、まさに命がけの逃亡であることは間違いない。また生きて逮捕されたとしても、懲役5年までの刑罰に服さねばならないこともあった。(上の各項目をクリックすると新しいウィンドウが開き詳しい説明や写真が表示されます)

壁ができる前から亡命はあった
 実は壁が作られる前から亡命≠キる人はいた。1945年に終戦、ドイツは米英仏ソの4か国に占領され分割された。ソ連占領地域の中にあったベルリンもまた4か国に占領され分割統治された。その際、東ベルリンや東ドイツで敷かれたソ連側の体制を嫌い、自由を求め西側へ移住する人が出た。東西ドイツが建国された1949年から壁ができる61年までに270万人近くが東ドイツ・東ベルリンを脱出した。これらの人々は西側では「亡命者」として受け入れられた。270万人という数字自体すごい数だが、これは公式に亡命者として登録された人であり、親族や知り合いを頼って移住し役所への登録をしていない人もいたと思われるため、実際の数字はもっと多かったはずだ。

西ベルリンが穴≠ノなった
 1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国された。ドイツの東西分断が確定したことにあり、西ベルリンへ逃れる人が絶えることはなかった。ベルリン同様、東ドイツから西ドイツへ逃げ込む形の亡命もあった。特に熟練労働者や技術者が多く、東ドイツ当局には痛手だった。このように貴重な労働力が吸い込まれていくのを東独当局も黙認するわけにはいかず、1952年5月、東西ドイツ国境、そして西ベルリンと東ドイツの境界を鉄条網などで封鎖したのだった。ここで注意すべき点は東西ベルリン間は封鎖されなかったことだ。東ベルリンを通れば西ベルリンに到達することができるため、亡命者を食い止める措置としては不完全で効果は薄かったといえる。そこで東ドイツとしては西ベルリン全体を封鎖する必要に迫られていった。

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