・・・・・・・1961.08.13 壁建設ドキュメント・・・・・・・・

 1961年8月13日。壁建設が始まった運命の日です。その当時、東ドイツの圧政に耐えかねた労働者が自由を求めて雪崩のように西ベルリンへ亡命していました。この流れを何とか食い止めるために東ドイツが取った最後の手段でした。物理的に西ベルリンへ行けないよう壁を作ったのです。

 壁建設といっても、いきなり立派なコンクリートの壁を築いたわけではありません。東ドイツ側は、まず鉄条網などを道路上に立てて交通を遮断することで西ベルリンの周囲の境界を封鎖する作戦を立てました。その後、徐々に石やコンクリート部材を使った壁を作り、西ベルリンへ逃げる者が出ないよう監視体制を強化していったのです。

 このページでは、東ドイツによる壁建設に関係する動きを細かく再現しました。(掲載した日付や時間はすべてベルリンの現地時間です)



事前の動き
6月15日東ドイツの指導者、ヴァルター・ウルプリヒト人民議会議長が壁を作るという噂を否定 ・・・・★
8月 3日ワルシャワ条約機構加盟国による首脳会議で西ベルリン封鎖承認 ・・・・★
8月 9日西ドイツの情報機関がベルリン封鎖の可能性を報告 ・・・・★
8月10日東ベルリンの工場でウルプリヒトが「亡命者をなくすための措置を講ずる」と演説
8月11日ポツダム広場駅で、東ドイツから東ベルリンへ来た乗客への検問が厳しくなる ・・・・★
  〃  西ベルリン市当局内では「東ドイツが週内に(境界封鎖など)動くことはない」と報告
  〃  東ドイツ国会(人民議会)が亡命者を食い止めるための対策をとるよう閣僚評議会に委任 ・・・・★
8月12日午後4時ウルプリヒトが西ベルリン封鎖作戦の命令書に署名
  〃  午後10時東ドイツ国防相ハインツ・ホフマンが国家人民軍出動にゴーサイン ・・・・★
  〃  午後10時30分一部の国家人民軍部隊、警察部隊が出動 ・・・・★

8月13日
午前0時0分国境警察などに出動命令。西ベルリンの周囲全域で鉄条網などによる封鎖を開始 ・・・・★
  1時5分東ドイツがブランデンブルク門のライトアップを消す
  1時11分東ドイツのラジオが西ベルリン封鎖の声明 ・・・・★
  1時54分「東ドイツから西ベルリンに来るはずの電車が来ない」と西ベルリン警察本部に通報 ・・・・★
  2時20分このころより境界封鎖の目撃が西ベルリン市民らの間で相次ぐ
  2時30分西ベルリン駐在のアメリカ特使アラン・ライトナーに報告 ・・・・★
  2時45分西ベルリン警察にE1警報が発令される ・・・・★
  3時25分アメリカの通信社UPIが速報 「東ドイツの警察が夜半、東西ベルリン境界を封鎖した」
  3時30分西ベルリン駐在の米情報機関CIA担当官ジョン・ケニー、ラジオで境界封鎖を知る ・・・・★
  3時37分アメリカの通信社APが速報 「ブランデンブルク門が封鎖された」
  3時53分西ドイツの通信社DPAが速報 「東ドイツ警察が鉄条網を設置」
  4時30分西ドイツ首相コンラート・アデナウアーに報告
   〃    西ベルリン市長ヴィリー・ブラントに報告 ・・・・★
  5時00分米ワシントンの国務省に電話で連絡 ・・・・★
 
午後12時37分クロイツベルク地区で封鎖が完了したことを西ベルリン警察が確認
   4時ごろブランデンブルク門前に西ベルリン市民約3000人が集まり封鎖に反対するデモ ・・・・★
   6時30分米大統領ケネディに報告 ・・・・★

封鎖直後の西ベルリンの様子
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その後の動き
14日東ドイツの職域戦闘部隊100人以上がブランデンブルク門前に立ち並び封鎖をアピール ・・・・★
 〃ウルプリヒトがポツダム広場を訪れ封鎖を視察
 〃西ドイツ首相アデナウアーがテレビで演説 ・・・・★
15日午後4時ごろ、封鎖を監視していた東ドイツの警官が西ベルリンに亡命 ・・・・★
 〃午後6時ごろ、ベルナウ通りで鉄条網に代わり、石造りの壁建設始まる ・・・・★
16日西ベルリン市で市民30万人が抗議集会 ・・・・★
19日米副大統領リンドン・ジョンソンが西ベルリン訪問 ・・・・★
 〃   米軍の増援部隊が西ベルリン到着 ・・・・★
22日境界際の建物から亡命しようと飛び降りた女性が死亡 ・・・・★
24日亡命者への銃撃で最初の犠牲者 ・・・・★

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