8月16日 西ベルリン市で市民30万人が抗議集会

 西ベルリンが封鎖され壁の構築が始まった。最も敏感に反応したのは地元の市民たちだ。西ベルリン市民はブランデンブルク門前で抗議デモを行ったりしている。それに対し、西ベルリンを占領統治していた米英仏の西側3か国は、自分達の権益が侵されたわけではないので、これといった対抗策はとらなかった。同じように東ベルリンを占領統治していたソ連に対し抗議文書を出した程度だった。市民の怒りも頂点に達しようとしていた。この声を代弁したのが西ドイツ発行の大衆紙「ビルト」の見出しだ。

 「西側、何もせず! (米大統領)ケネディはだんまり、(英首相)マクミランは狩りに出かけている…」

 こうした中、西ベルリン・シェーネベルク地区にある市庁舎前で市民30万人が集まり抗議集会が開かれた。集まった人々が掲げるプラカードには「強硬策を要求する」「紙の抗議はたくさんだ」「西側にだまされた」など怒りのこもった言葉が書かれている。

 西ベルリン市長ブラントは30万人を前に演説、ソ連や東ドイツを非難し「人間性を見せよ。同朋に対して銃を向けるな」と訴えた。また何もしない米英仏にも「(東側の)はなはだしい不正に対する答えが紙の抗議であってはならない」と警告した。そして、駐留米軍増強などを求めてケネディに書簡を送ったことを披露した。

 彼の演説は、聴衆を煽り立てることも落胆させることもできない難しいものだった。うっかり扇動してしまえば、西ベルリン市民は大挙して境界地帯になだれ込む恐れすらあった。また市民が演説を聞いて失望感を持てば、西ベルリン市当局や西ドイツ政府への信頼は完全に失われてしまう。しかし、ブラントの演説に、誰からも見捨てられている、と感じていた西ベルリンの聴衆は拍手を惜しまず、ひとまず安心を取り戻したとされる。

 ヴィリー・ブラント 1913年、ドイツ・リューベックに生まれる。社会主義運動に携わり、38年、ナチスの迫害を逃れてノルウェーに亡命。戦後、ドイツへ戻り社会民主党(SPD)員として政治活動。57年に西ベルリン市長になる。69-74年に西ドイツ首相を務め、ソ連や東ドイツとの関係改善に努力する「東方外交」を推進、71年に「四か国協定」が成立し、西ベルリンの地位が安定した。その功績で同年、ノーベル平和賞受賞。92年死去。